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「わかる」と「操る」から学ぶ AI との向き合い方

2026-07-07

最近 AI というものの進化が様々なシーンで日常を変化させていっている。
ソフトウェアエンジニアリングに関わっていると、一年前、いや半年前と比較しても非連続的といっていい変化がもたらされているのを感じる。

当然、当事者たちは日々 AI との向き合い方、活用の仕方について侃々諤々である。
自分自身その渦中に身を置きながらも、いつものようにポジションを表明せず、お得意の「様子を見る」をしていたのだが、最近読んでいた本の中の一節がふと目に留まった。

この本自体は少し前に執筆されたものだが、最近になって改めて文庫として刊行され、おそらくはその際に追加された解説に書かれていた文章だ。

数学においては「直観」と「規則」が、いつも背中合わせの関係にある。直観的に何かを「わかる」ことと、規則に従って記号を正しく「操る」こととは、常にたがいを支え合う関係にある。計算の意味を「わかる」ことができて初めて、筆算の規則を編み出すことができる。だが、ひとたび筆算の手続きを身につけてしまえば、極端な話、たとえ意味を忘れてしまったとしても、正しく数を「操る」ことはできる。かくして、「わかる」と「操る」は互いを支えながら、原理的には切り離すことができるのである。

この洞察が、たとえば計算機の成立を支える。実際、計算機に「わかる」ための意識や心はないが、それでも様々なデータを規則に従い、正確に「操る」ことができる。直観を孕む人間の知能に、どこまで規則の側から迫っていけるかは「人工知能」研究にとって重要な問題である。

── 森田真生「解説」、矢野健太郎『暮しの数学』中公文庫、2020、pp.241-242

数学を「わかる」ことと「操る」ことは相互に関係するものでありながら、切り離すことができる。これは示唆に富んだ一節ではなかろうか。

また、計算機と同じように AI も「わかる」ための意識や心を持っているわけではない。だが、最新のモデルが「操る」コードの品質はかなりよくなってきている。

ここ数年で設計、開発、テストといったソフトウェアエンジニアリングにおける「操る」業務の一部が急激に AI に委譲されていっている。
しかし「操る」ことを AI に委譲したからといって、実現しようとしているビジネスや、構築しようとしているシステム、採用しているアーキテクチャを「わかる」ことを手放せるわけではない。
自分が「わかっている」ことが AI に作業を上手に委譲するために必要なのだ。
わかっていなければ AI に適切に指示することも AI のアウトプットを正確に評価することもできない。

今やこれらの業務の多くを AI に任せているソフトウェアエンジニアもかなりの数になっているだろうし、その一方で自らが手を動かして開発を行わないことに違和感や不安を抱いている人もいるだろう。
しかし、それを委譲することはけっして己の不要性を示すことにはならない。少なくとも現時点では、それによって直ちにソフトウェアエンジニアの仕事が失われるわけではない。
ただし、考えること、ビジネスやシステム、アーキテクチャを理解することまで委譲してしまってはいけない。
そうなったら、その先にはソフトウェアエンジニアとしての衰退しか残っていない。

2026-07-07T08:28:20.132225+09:00